p>【訪問先】内閣府、STAE,CNE、国会議事堂、UNDP,UNMITなど
【研修期間】 2008年8月31日から9月12日
【タイトル】東ティモールの民主化における成果と課題―“暴力の文化”から“民主主義の定着”へ-
【作成者】 土屋 喜生(ツチヤ キショウ)法政大学法学部3年
【序論.】
2002年に誕生した東ティモールの民主化は、形式的には完成を見つつあり、ガバナンスや治安の状況も安定しつつある。
この文書では、2008年8月31日から9月12日の期間に行われた東ティモールでの長谷川ゼミの研修旅行で私が体験したことをもとに、
東ティモールの民主化の成果と課題について報告するものである。
今回の滞在は、私にとって2007年以来2回目の東ティモールへの訪問であり、
前回の訪問と比較することでこの国の民主化が急速に進んでいることを如実に感じることが出来た。
今回は、まず、東ティモールにおける民主化の文脈について説明し、次に今回の旅行における機関や要人への訪問、最後に東ティモールの民主化における成果と課題について私が考察していることについて報告する。
【A. 東ティモールの文脈】
1. 東ティモールの歴史
東ティモールは、16世紀から約400年間に及ぶポルトガルによる植民地支配、1975年から24年間のインドネシアによる併合、そしてその後3年間の国連による暫定統治を経て2002年に完全な独立を達成した。1999年にはインドネシア併合派による武力行為により1500人近くの市民が殺害されたとされ、インドネシアが残した政治事務所、公的施設や道路等のほとんどのインフラストラクチャーが破壊された。
また、16世紀からの他国による支配のため、東ティモールの国民たちは自ら政府を運営したことがなく、あらゆる面で1999年からの国連暫定統治機構はゼロから東ティモールという国を作る必要があった。
2002年5月までの3年間の任期の間に国連暫定統治機構は国会議事堂や内閣府などの主要な国家運営に関する土台を築き、大統領の指名、88名の制憲議員による最初の議会の発足、そしてその議会による東ティモール民主共和国憲法の制定を見届けたうえで主権を国民に引き継ぐことに成功した。
そして、独立後の東ティモールは国際社会の強力な援助を受けながら民主政治のための機構をととのえ、治安も安定し、国連平和構築の成功例として注目を集めるようになった。
しかし、国連平和維持軍と国連警察隊の大幅な縮小後の2006年6月、出身地による就職・昇進差別やFLETELIN政府による強権的な政権運営を背景として警察や軍や多くの無職の若者たちを巻き込んだ武力紛争が起こり、東ティモールは内戦に近い紛争状態に逆戻りし民主政治も存続の危機にさらされることとなった。この暴動はオーストライア、ニュージーランド、マレイシアとポルトガルからの平和維持軍の派遣によって収束したが、国際社会の援助、平和構築、新しい国における民主政治のあり方への大きな教訓を残すこととなった。
現在、国連は1600人に及ぶ国連警察隊を維持し大規模な多国籍軍による平和維持部隊とともに東ティモールでの治安の維持をおこなっている。また東ティモールの英雄であるシャナナ・グスマン氏のCNRTを中心とした新たな連立政府によってすぐれた政権運営が行われており、状況は改善している。2008年2月、大統領・首相の暗殺未遂事件が起き、ラモス・フォルタ大統領は瀕死の怪我を負うが、社会全体としては大きな混乱は起きずに犯行グループは鎮圧された。
2. 政府体制について
東ティモールは半大統領制の憲法を持っており、主権は国民から大統領、内閣、議会、司法府に与えられる形となっている。行政権を掌握し、政治の実権を保持しているのは議会の多数を占める政党または政治連合から構成され、大統領の指名によって任命される総理大臣とその内閣である。
大統領は国民から直接投票によって選出されるが、どちらかと言えばアメリカの大統領のような権力者ではなく、日本の天皇のような国民統合の象徴的な存在である。大統領の唯一の法的な権限は立法に対する拒否権である。議会は全国で1つの選挙区から比例代表制で選ばれる。
【B. 機関・要人訪問に関する報告と考察 】
1. 内閣府訪問に関して
今回の研修旅行において内閣府を訪問し、現職の内閣総理大臣であるシャナナ・グスマン氏や国務長官であるアジオ・ペレイラ氏からおのおの一時間以上も講義を受け、質疑応答をする貴重な機会を与えられた。
私は対面の前に何人もの東ティモールの市民たちにグスマン首相の政権運営について質問したが、彼については肯定的な評価を耳にした。
「彼は勇敢な戦士だった。私たちにとってはとても大切な人だ。」
「グスマンが首相になってから治安が良くなった。IDP(国内避難民)も減った。」
「グスマンが首相になってからは暴動もないし、東ティモールはもう平和だ。」
返ってくる答えはこのようなものであった。
私たちが2007年の夏に東ティモールを訪問したときには、2006年の暴動で家を追われた人々が首都ディリにあふれ、夜になると青年たちが騒ぎを起こしていた。また、空港の前や、ホルタ大統領の自宅の中にさえIDPキャンプがあったのである。
しかし、今ではIDPキャンプはほとんど残されていないうえ、私の目から見ても状況が落ち着いているのがわかるほどにディリ市内は穏やかになった。
グスマン氏については「穏やかな人」と市民から聞いていたが、実際に会ってみるとその通りの人であった。
大きなジェスチャーで英語を話し、しばしば冗談を言ったり、大げさな反応をしたりする気さくな紳士で、“元ゲリラのリーダー”、“初代大統領”、“カリスマ的英雄”、“内閣総理大臣”という彼の肩書きから私はきびしい表情の寡黙な人物をイメージしていたが、それは間違っていた。
ただし、たまたま私たちがグスマン総理大臣の講義を聞いているときに誰かが部屋のガラスをたたいたときには、一瞬だけ“ゲリラのリーダー”だったことを思い出させるような険しい表情を見せた。それは今年の二月に彼やホルタ大統領が銃撃されたこともあり、この国の治安がまだ安定したばかりで、一歩間違えばすぐに暴動状態に戻る危険性があるのだという現実を想起させるものでもあった。
グスマン氏は政権運営が成功している理由について、「議会、大統領、内閣が背を向け合うことを止め、この国の発展のために協力するようになったこと」をあげた。
また、「国民の中に民主主義を守ろうとする文化が芽生えた」ことを指摘された。私はこの2点こそが2006年の暴動の際と2008年2月の大統領・首相に対する銃撃の際の政府や国民の対応の違いを生んだ理由だと考えている。
国務長官のアジオ・ペレイラ氏によると、「大統領と首相が銃撃されたとき、内閣は数時間以内に緊急事態の特別法令の準備を整え、翌日には議会が召集され、メディアによる呼びかけが功を奏して国民もすぐに平静を取り戻した」とのことである。
先日、長谷川ゼミを訪問された在京の東ティモール大使であるサラメント・ドミンゴス大使もおっしゃっていたことだが、ほとんどの国民がインドネシア時代のゲリラ活動、1999年の残虐な国内紛争を経験している東ティモールにおいては、“いざとなったら殺せばいい”という“暴力の文化”が最近まで残っていたように思う。
それを考慮すると、グスマン氏が挙げた“民主主義を守ろうとする文化の芽生え”こそ、ここ2年間の東ティモールの政治における最も大きな進歩であり、平和を醸成している要因だと思われる。
※“民主主義を守ろうとする文化の芽生え”に関する考察
この“民主主義を守ろうとする文化”が芽生えるきっかけとなったのは2007年の大統領・国会議員選挙だろう。
2002年の政権議会選挙においては国民のなかに選挙のやり方や制度についての知識の欠陥や誤解があったようだ。
首都ディリのある青年は、
「2002年の選挙の前まではマリ・アルカティリ初代首相なんて誰も知らなかった。みんながグスマン総理大臣、ホルタ大統領、FRETELINを知っていて、尊敬されていた。しかし、みんながグスマン氏をFRETELINのリーダーだと思って投票したら、紛争後に外国から戻って来たアルカティリ氏が首相になると言われた。紛争の後に外国からやってきて権力を掌握したアルカティリ氏には多くの人が不満を抱いていた。」
と話してくれた。
つまり、多くの人々が2002年からの政府に対しては正当性を疑ったり、不満を持ったりしていたようである。
こういった状況の中で2007年の選挙が公正に行われ、平和裏に政権交代を成功させたことは東ティモールの国民にとっては大きな発見だったであろう。彼らは“弾丸によって”ではなく“投票用紙によって”自らの政府を代えることができると気づいたのである。
2. 選挙管理組織への訪問に関して
2007年の大統領・議会選挙の成功は独立後に組織された選挙管理機関(EMB’s)によって支えられた。
東ティモールにおける選挙管理機関とは、選挙の運営を担っているSTAE(Technical Secretariat for Electoral Administration)と選挙監視を担っているCNE(National Commission on Elections)に最高裁判所を加えた三機関を指す。今回の研修旅行においてはSTAEとCNEを訪問することが出来た。
STAEは2004年に設立され、選挙の実施全般に責任を負っている機関であり、18人のスタッフで構成されている。
全国レベルの選挙における市民への啓発、有権者や立候補者の登録、投票所の準備、物品の調達、投票日における事務、得票数の計算などはSTAEの役割である。今回はSTAEディレクターからブリーフィングを受けることができた。
2007年の大統領・議会選挙の運営の状況について尋ねると、「投票日の約半年前に選挙に関する法律の改定が行われた。
これは関係機関に混乱を招いた。
また、物品が直前まで届かなかったということがあったため選挙の前日まで投票用紙の印刷をやらなければならなくなった。
投票日までに全てが整ったのは海外からのNGOや国連の支援があったためである。」という答えが返ってきた。
議会にとっても選挙は新しいことであり、STAEはまだ設立から4年しかたっていない。
そのため、全国レベルの選挙の運営の経験も3回しかない。これからも経験を積み重ねていくことが必要のようだ。
また、選挙の際、日本では候補者の名前だけが書かれた投票用紙を用いて投票を行うが、それは字を読めなければ投票が出来ないということである。
そのため、私は成人識字率が約50%の東ティモールではどのように投票するのかということに興味があり質問させていただいた。
彼の答えは「投票用紙には名前だけではなくて候補者の写真がついているから有権者は簡単に投票することが出来る。
また、ティモールでは選挙戦が草の根レベルで行われ、多くの人が候補者に直接に会うことができるため、字が読めないから政策がわからないということはそれほど心配しなくていい」ということだった。
この話を聞いて日本やアメリカでしばしば話題に上る「投票が難しくてできない」「間違えて投票する」という問題は、東ティモールのように簡単に投票できる投票用紙を作成することで減らせると思った。
全員が理解できるように方法を工夫して選挙を行うということについては、我々先進国の国民も見習うべきところがあると思う。
STAEが選挙の運営を行うのに対してCNEは選挙の監視・監督を行う機関である。
CNEは内閣、議会、大統領、司法府、女性団体、カトリック教会、カトリック以外の宗教団体から指名された15人のメンバーによって構成されている。
この機関はSTAEよりも新しくCNEの設立は2007年であり、大統領・議会選挙の数ヶ月前である。
この機関は予算や運営において政府や政党から完全に独立している。
私たちはグスマン氏が大統領だったときに指名されたメンバーとムスリムモスクから指名されたメンバーの2人からブリーフィングを受けた。
彼らによると、昨年の大統領・議会選挙においてCNEが摘発した選挙法違反は100件以上に上るという。
ただ、その中に汚職に関わっていたものはなかったというから意外である。
また、選挙法違反を摘発しても、それを裁く裁判所は懸案が多すぎて全てを扱えないという問題があるそうだ。
これらの組織は来年予定されている東ティモール初の全国一斉知事選挙においても中心的な役割を果たすだろう。
これについては後でも触れるが、非常に重要な選挙となるため、STAEとCNEにはその能力や昨年の経験を生かして役割を果たして欲しい。
※次回は『東ティモールの民主化における成果と課題』の後編をお送りします。
ぜひご覧ください。
本レポートのPDF版はこちら→『東ティモールの民主化における成果と課題―“暴力の文化”から“民主主義の定着”へ-』
井上さん
研修旅行の際は大変お世話になりました。おかげさまで、一般にはできないような貴重な経験をすることができました。
レポートについて貴重なコメントをありがとうございました。。僕は来年の3月からそちらのUNDPでインターンをさせていただく予定です。井上さんのコメントはとても勉強になりました。
数日以内にこのレポートの後半もアップされるそうなので、ぜひそちらも読んでいただけたらと思います。
この報告書も大変楽しく読ませていただきました。とてもよく勉強し観察をされた結果だと思います。コメントをいくつか書きます。まず、政体ですが、半大統領制という意味がよくわかりませんが、この国の大統領は象徴以上の存在です。拒否権で立法府に影響を与えるほか、恩赦によって司法にも影響を与えますし、最高軍司令官、首相の任命権者として政府にも多大の影響を与えます。それから、EMBは選挙を直接担っているCNEとSTAEだけであり、最高裁はEMBとはいえないと思います。また大統領選挙の場合は、候補者の顔写真が投票用紙に掲載されましたが、議会選挙は全国だけの比例代表制でしたから、候補者の顔どころか名前も投票用紙には出ませんでした。代わりに政党のロゴが掲載されました。また来年予定されている選挙は、村の集合体であるスコ評議会の選挙と、現在の県を市に改変した後の市議会選挙です。市長が直接選挙によって選ばれるかどうかはまだ決まっていません。地方自治はこの国の民主主義にとって極めて重要な課題ですので、是非、フォーロしてみてください。