2011年度東ティモール研修旅行事前勉強会
「きしょうさんとの対話2」
■テーマ : 「1999年以降の東ティモール史 -国連のミッションとティモール政府の動きから-」
■講 師 : 土屋喜生先輩
■日 時 : 2011年6月7日(火) 19:00~20:00
■場 所 : 法政大学市ヶ谷キャンパス 外濠校舎 601教室
■作成者 : 野田 悠将 法政大学法学部国際政治学科3年
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0, 国連ミッションの変遷
1999 UNAMET選挙のためのミッション
1999~UNTAET暫定統治機構(政府と同様に統治の役割を担った世界でも珍しい国連ミッション)
2002~UNMISET(副代表が長谷川先生)・独立と同時にUNTAETから移行、権限をアルカティリ政権に委譲。
2005~UNOTIL(代表長谷川先生。平和維持軍・治安維持部隊をほとんどもたなかった。
2006~UNMIT 維持軍を戻したもの
1, UNTAETによる暫定統治 1999~2002
A. 住民投票からUNTAETの設立
インドネシアではスハルトからハビビに大統領が代わり、東ティモールで独立か特別自治区としてインドネシアに残るかを決める選挙が行われることになった。この選挙支援のためにUNAMETが派遣された。当時UNAMETの責任者の一人であったアンドレスは私がインターンでいた事務所の上司であった。選挙前日には大量の脅迫文が来たが、選挙を実施した。投票率が98.8%で、78.5%が独立を支持し、21.5%がインドネシア国内に留まることを望むという結果だった。東ティモールは独立する方向に進むことになったが、この選挙結果を受けて虐殺が起きた。当時の状況に関してはアメリカの調査機関のカーターセンターのレポートが詳しい。虐殺が起きていたとき、アマラル、ラサマ、グスマオなどはジャカルタで軟禁・投獄されていた。彼らは今の連立政権を作っている3つの政党の党首であるが、ジャカルタで軟禁・投獄されていた際に現在の連立が生まれる基となった連携が生まれたのではないかと考えることもできる。アルカティリはモザンビークにおり、ホルタはニューヨークかどこかにいたと思われる。
B, 虐殺について
投票翌日から虐殺が始まった。東ティモール人でインドネシアに残りたい人、インドネシア人で独立を受け入れられない人が虐殺を始め、独立を支持する人々もそれに相対することとなった。オーストラリアとニュージーランドの軍からなる多国籍軍INTERFETが介入して、紛争を鎮圧した。
その後国連が早く動いて、10月25日、セルジオ・ヴィエラ・デメロを代表とするUNTAET、東ティモール国連暫定統治機構が設立された。主なマンデートは治安の回復と正統な東ティモール政府の樹立、東ティモール人による国家機構をつくることであった。当時、4人の外国人と4人の東ティモール人が内閣の役割を担った。UNTAETは36人の東ティモール人(政党、地域、宗教代表)からなるConsello Nacionalを設立し、彼らと相談しながら独立後の体制について協議した。この機関には決定権がなく、実際にはデメロが決断するという形であった。この時期、デメロと並んで実質的な国家経営の立場にいたのがシャナナ・グスマオである。
C, 憲法制定過程
(1)選挙
2001年8月にUNTAIETによる選挙があった。この議院の候補は全体が88人のうち、13人が地域代表(つまり小選挙区制)で、55人が政党から選ばれた(Close list proposional representation拘束名簿比例代表制)。拘束名簿とは、政党の候補者リストにおいて議席を獲得する候補者の順を党首が決めるシステムを指す。非拘束名簿であれば、投票者が当選者の順位を決めることになるが、拘束名簿を採用した場合は政党のトップが名簿の順を作るため、すなわち政党のトップが権力を握り易くなる。
この選挙でフレテリンが過半数の議席を取り、フレテリンの党首アルカティリが主席大臣となった。彼は直前まで約24年間モザンビークに居たので、ティモールの人々からしたら外国人みたいであったが、彼が中心となって、憲法が作られた。
(2)憲法前文(preamble)
植民地化:400年にわたるポルトガルの植民地、インドネシアの不当占拠についてまず触れられている。ここには東ティモール人共通の歴史観を作り出そうという意図がある。マウベレとは外国人と比較した際の東ティモールの土地の人ということ。ティモール人の土地も文化も、長期にわたって外国人に支配されていたということが東ティモール人共通の経験。
独立:「1975年11月28日にはフレテリンによって独立が宣言された。このフレテリンのシャビエール・ド・アマラルが一方的に宣言したものが、今日5月20日2002年に承認された。1975年の12月のインドネシアによる併合は不法な侵略である。」これが東ティモール憲法の歴史観。1980年代にはフレテリンとそれ以外の政党や団体のゲリラをまとめ上げることで、シャナナ・グスマオはCNRM(Consello National de Maubere Resistancia)後にCNRTと呼ばれるゲリラ部隊を組織する。ちなみに、グスマオは2007年に新しい政党を作り、その政党の名前に再度CNRTという名前を使っている。つまりCNRTは二つの意味を持つ。
3つの独立闘争の最前線
1.武力:FALINTIL…フレテリンの軍部。最初はシャナナがリーダー。CNRT: 1980年代に政党レベルでの抵抗に限界を感じたグスマオを中心に東ティモール全体のゲリラをまとめ上げた組織。ティモール人全体で戦おうという理念を持つ。
2.clandestine front…秘密運動を指し、特にジャカルタや東ティモールで行われたPRO東ティモールの学生運動を指す。国会議長ラサマもユース運動のリーダーとして逮捕されたりしていた。
3.Diplomatic front…主にホルタによる国連などでの外交を指す。
(3)憲法の内容
はじめの方で、人権条項などについて触れられ、内容はしっかりしている。中盤から国の形について書かれており、東ティモールは内閣、国会、裁判所、大統領の四権分立の政治体制を持つ。マリアルカティリは憲法制定の際に、大統領権限を弱め、内閣を強化した。その背景にはシャナナ・グスマオが大統領になることがほぼ確実となっていたことがあげられる。
(4)法律制定について
日本では、法律は閣議で作られ、国会で承認され、天皇による公布で制定されるが、東ティモールでは、法律が制定される際には、閣議決定があり、国会で承認され、大統領による承認が必要である。
一方で政令とは、閣議を通っただけで、その効力を持つものである。東ティモールでは憲法上、政令による範囲が明記されてないので、閣議決定によって自由に法律効果のある決定をすることができる。アルカティリ、シャナナともにこれを多用している。
また、日本国憲法の場合は、内閣の半数は国会議員から選ばなければならないが、東ティモール憲法の場合はそのような規定はなく、最悪の場合首相だけ国会から選んで、あとは自由に選ぶことができる。この制度は、専門家を大臣として任用しやすいという柔軟性があるものの、国会の内閣に対する監視能力を弱めるという問題点がある。
C, 大統領選挙
2002年に大統領選挙が行われ、予測通りシャナナが大統領に就任した支持率約80%であった。憲法に書かれているように独立した。このあたりもカーターセンターのレポートに詳細に書いてある。
<参考文献>
1、IDEAというサイトには世界中の選挙に関しての情報が載っている。
http://www.idea.int/
2、Dennis Shoesmith…民主化の勉強をすると避けられない知る人ぞ知る教授。自身の東ティモールに関する論文において、憲法の改正の必要性を説いている。
2, マリ・アルカティリ・フレテリン政権 2002~2006
A.当時の政治的課題とアルカティリ政権の対応の評価
東ティモールが独立し、国連ミッションがUNTIETからUNMISETに代わり、アルカティリ・フレテリン政権が発足した。非拘束名簿であったこともありアルカティリが権力を握っていた。彼はインドネシア、オーストラリアとの国境の問題、油田の問題をそれなりにうまく切り抜け、外交面でも日本、インドネシアなどと良好な関係を築き、国内避難民の問題、民兵やゲリラの武装解除もうまくやった。しかし経済面ではGDPのマイナス成長、失業率の高さなど経済、開発の面ではうまくいかなかった。しかし治安に関しては国連の情報が正しければ、2005年までは安定していた。2002年、2003年あたりでは、ジャーナリストが暴動のようなことがあったと記録している。
アルカティリ自身は時に嫌みなことを言う人で、「デモは自由だが、政策を決めるのは俺だ」などと言ってしまう人で、人気を落とした。2005年に、国連が安全になったと判断し、平和維持軍が帰った。維持軍がいない国連ミッションUNOTILの代表が長谷川先生だった。前任者がイアンマルティンであった。
B. 2006年の暴動
2006年に暴動が起きる。2006年2月に軍の4割が仕事をさぼって、政府に対する嘆願を始めた。この4割の人は西部出身のマレー系、所謂「ロロモヌ」の人々が多く、軍の中で出身が理由で出世できないなどの差別があるということを訴えた。アルカティリ政権は、彼らが職務を怠っているということで解雇した。職務を怠る軍人は信頼できないので、解雇が当然であるが、この政府の対応について他の政治家からは疑問を呈す意見が出た。この問題が発端に、その他の西の人々も東の人々から差別を受けているかもしれないと考え、また若者も就職できないこともあり、嘆願に来た兵士と様々な不満を持った人々が集い何万人規模のデモが起きた。最初は平和的だったが、二日目から政府公社を破壊するなど暴動と化し、警察、軍もそれに向けて発砲し混乱した。その後、オーストラリア軍が再度鎮圧した。死者数はおよそ40人で、約10万人がIDPになった。グスマオはアルカティリに辞任を迫り、最終的にアルカティリは辞任した。ホルタは外務大臣であったが、首相になった。この暴動の原因はいろいろあるが、まず読まなくてはならないのは国連のレポートで、ここで主に指摘されている点は、軍と警察の関係、コリマオ2000などの若者の不満、専制的な国家運営と軍による暴動への政府の関与の3つである。他には、ジャーナリスト青山森人によるシャナナとラサマの陰謀説や、シュースミス教授のように憲法を中心とする枠組みに構造的な不満をためる原因があったのではないかとの考え方がある。
3, 2007年の選挙とグスマオ政権
ホルタ政権は一時的なものだったが、選挙法の規定にしたがって、2007年に国政選挙が行われた。大統領選挙の1stラウンドでは1位ルオロ(フレテリンの元戦士)、2位ホルタ、3位ラサマで、決選投票ではルオロが約35%、ホルタが約65%を獲得し、ホルタが大統領になった。
議会選挙では65議席が争われたが、フレテリンが21議席獲得したが、それ以外の4党が連立与党を形成した。これはAMP連立政権と呼ばれ、シャナナ・グスマオのCNRTが18議席、フェルナンド・ラサマのPDが8議席、PSD・ASDT連合(PSDの党首がマリオ・カラスカラウンでASDTの党首がシャビエール・ド・アマラル)が10議席を獲得した。首相がシャナナ・グスマンで、大統領がラモス・ホルタという体制で、アルカティリのフレテリンが最大野党となった。
グスマオ政権は選挙での勝利後、退役軍人にいい退職金を出した。暴動の際に生まれたIDPを急激に減らした。2007年のときにはIDPがディリにもたくさんいたが、2008年のときにはほぼいなかった。オイルマネーが入ったこともいい影響を与えた。エミリアピレスが金融大臣になり、経済成長率もよい。治安の回復がよく、犯罪率が低い。貧困削減に関しては、ディリは発展してきているが、地方はまだ貧しい生活をしている。道路なども整備されていない。雇用に関してはどうだかはわからない。地方の開発は進んでいない。
政治文化的には成長したのではないか。これは構造的な問題で、2007年まではアルカティリの単独政権だったので、他の政党の話を聞かなくてよかったが、それ以降は連立政権を組んだことで多様な意見を聞かなくてはならなくなった。アルカティリ時代の内閣は専門家任用やフレテリンの候補者が多かったが、シャナナの内閣にはいろんな政党からの大臣がいるので、構造的に国会と内閣の関係が深くなったと思う。シャナナ曰く各政党が向き合うようになったそう。しかし、オイルマネーの管理はあまりうまくいっていないようである。
A, 2008年の暗殺未遂とアルフレド・レイナード
暴動を起こした一派でアルフレドレイナード(青山森人と友人)が投獄されていたが、逃げだした。「シャナナが2006年の暴動の黒幕だ」と主張し、武力で彼らを倒すと宣言した。若者や一部の人が彼を崇拝していた。レイナードの部隊がシャナナとホルタの家を襲う。ホルタのセキュリティーもしくは警察がレイナードを撃ち殺した。臨時的にラサマが大統領をして、戒厳令を敷いた。6月まで続いたが、レイナードの軍の残党が投降して落ち着いた。
2006年の暴動とレイナードの乱は、状況として似ている部分があるが、人々の動きが大きく違った。2006年のときは、アルカティリを下すために違法なクーデターを起こしたということができるが、民衆はレイナードを助けるのではなく、大統領の射殺未遂に関して、冷たく対応した。軍や、警察もレイナードのときも効果的に動いて、次の日には落ち着いた。役割などがしっかりと分担されていてよかった。
B, 2008年以降
2008年以降、東ティモールの政治、統治がうまくいっていると感じる。それ以降は暴力的な事象はほとんど起きていない。私がいた2009年には村の選挙があって、それを手伝った。村長などが平和的に選ばれた。2010年には警察権限が委譲されて、東ティモールの主権が完全なものになった。今年、東ティモール政府がアセアンの加盟申請をしたところである。ちなみにホルタとシャナナはミャンマー政府から嫌われている。それは様々なところで「アウンサンスーチーは素晴らしい」と述べているからである。
今後の選挙については、今のところ、シャナナ、ホルタの政権が維持されるのではないかと予想される。平和維持部隊に関しては2012年の選挙が終わったら戻そうかなという話がある。国内政治に関しては、中央集権の度合いがとても高い。13県あるが、それを13市議会に変えて、地方分権にしようという話があがっている。今年実施の予定であったが、延期されている。東ティモール独立後史について暴力、権力、構造の視点から切り取ってみた。