【研修旅行】2011年5月31日(火) 東ティモールのアイデンティティと分析方法(土屋喜生先輩)



2011年度東ティモール研修旅行事前勉強会
「きしょうさんとの対話1」

■テーマ : 「東ティモールのアイデンティティーと東ティモールの分析方法」
■講 師 : 土屋喜生先輩
■日 時 : 2011年5月31日(火) 19:00~20:00
■場 所 : 法政大学市ヶ谷キャンパス 外濠校舎 601教室
■作成者 : 野田 悠将 法政大学法学部国際政治学科3年

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I, 東ティモールのアイデンティティー
 東日本というものは存在するかという問いかけから講義が始まる。回答者の吉田しょうごは、理屈をつけてあると答え続けた。次に、東ティモールというものはあるかという問いに対し、独立したということで言えば、あるのではと答え、それに対し、「それを崩そうと思う」という宣言にて講義は始まった。

1、東ティモール人とは誰か→1999年、ポルトガル・インドネシアによる協定
(1)国際法上、初めて東ティモール人が定義された文書であると思う。1999年インドネシア、ポルトガルに定義されたものである。東ティモールの人が決めたものではない。
(2)1975年より前に住んでいたもの、もしくは1999年時点において5年以上この地に住んでいるもの。と定義されている。つまり1975年~1999年の間に4年しか住んでいない人はティモール人ではない。
(3)1975年と1999年は重要な2年である。

2、東ティモールの位置と歴史
(1)13世紀ごろから第二次世界大戦前までの東南アジアと西欧による植民地化
13世紀ごろの東南アジアの国々の位置の説明から始まる。フィリピンにはムスリムなどが居住し、現在インドネシアやマレーシアがある地域にはスリヴィジャヤ王国があった。当時この地域の大国における識字率はとても高かったが、植民地化が進むと識字率は下がった。マゼランのフィリピン占領により、ほぼ90%だった識字率は5%ほどまで落ちた。東南アジアには覇権国と属国のような関係が見られ、小さな国が多々あった。当時、中国の歴史書などには、ティモールやオーストラリア周辺に関する文書はない。
その後、ティモール島は、ポルトガルが植民地とした。領土取り合いの後、変わった領土関係が生まれた。オイクシが飛び地になっている。
(2)第二次世界大戦から1975年までのインドネシアとティモール島
第二次世界大戦時には日本が占領し、ティモールにも従軍慰安婦はいる。日本の敗戦後、インドネシアからオランダが撤退した。ティモール島西部は、オランダの撤退後、インドネシアが抑え、東ティモール側は引き続き、ポルトガルの領土であった。植民地化によって分断された東南アジアにおいて、大マレー連邦案が失敗、67年にASEANという形でまとまる。インドネシアでスカルノからスハルトへクーデタにより大統領が変わった。
(3)ティモールの独立とインドネシアによる接収
1975年、ポルトガルのサラザールがカーネーション革命により失脚すると、ティモールも他の東南アジア諸国に遅れて脱植民地化が始まる。
ポルトガルの撤退が決まると、3つ政党APODETI、UDT、FRETILINの3つの政党が出来た。

政党名 政治的意見
APODETI インドネシアと併合
UDT     ポルトガルと併合
FRETILIN 独立、内部にマルクス主義者が多数で西側から嫌われた。

1975年に戦争が起き、激しい戦いの末、最終的にFRETILENが勝利した。その後インドネシアのスハルト大統領がアメリカなどに訴えると、ニクソンとキッシンジャーがインドネシアを去った24時間後に、インドネシアが攻め込み、東ティモールを制圧した。インドネシア曰く、合法的な併合である。ティモール側からすると、もともとの国境が正しかったが、占拠された。という。この際、ホルタもアルカティリも国外にいたが、グスマオは闘っていた。1991年サンタクルス墓地での惨殺が起きた。これをオーストラリアの記者が報じた。こののち、ホルタとベロ司教がノーベル平和賞を取る。

※インドネシアの「合法的な併合」という主張に関して:実は、FRETILINの内戦勝利後、APODETI、KOTA,UDTの3つの政党が、「バリボ宣言=統合宣言」というインドネシアへの統合を求める文書にサインしている。これを根拠にインドネシアは「あれは合法的な併合だった」と主張している。
※東ティモールの「不法占拠」の主張に関して:逆に東ティモール側は、1975年にシャビエール・ド・アマラルとフレテリンが発表した「独立宣言」が有効だったと認識している。

(4)東ティモールの独立
東アジア経済危機を理由に、インドネシアのスハルト大統領が失脚し、ハビビが大統領になると、ティモールいらないという流れになり、1999年に国民投票が行われた。多くが独立を選ぶ。99年からまた虐殺があり6000人ほど死ぬ。国連がティモールの暫定統治を行う。2002年に独立した。

3、東ティモール人の定義
東ティモール人の定義は、宗主国側によって行われた。インドネシアによる正当な併合、ティモールによれば不法占拠の歴史を生きた人ということになる。取り残された人々が東ティモール人となったともいえる。言語の共通性などもない。独立闘争組と国外逃亡組との間には差、軋轢がある。闘っていたのに、帰ってきた人々が知識人として成り立っているという現状がこの軋轢を生んでいると言える。

<質疑応答Ⅰ>
Q:なぜポルトガルやインドネシアなどの旧宗主国に伺いを立てなくてはならないか?
A:東ティモール側に正当な代表がいなかったので、ポルトガルに聞いてみた。選挙もしていなかったので、代表が決まっていなかった。

II, ティモールを分析する
東ティモール人を定義しないと、分析や研究を行うことができないのではないかと考え、これまで、東ティモール人の形成過程について述べてきた。ここでは、東ティモールを研究するにあたって、どのように読み解くかについて説明する。これらは新しいものではなく、歴史的に社会科学が行ってきた方法論である。

1、言語による分析
テトゥン語とはどのような言語か。テトゥン語が話される地域は限られているが、公用語になっている。オイクシの人々は話せない。言語は歴史、文化を反映する。日本語も中国語、英語とかが混ざっているように、テトゥン語はポルトガル語がベースになっていると同時に、インドネシア語の数字なども使われている。
※独立後、オイクシでもテトゥン語の教育が始まっている。なので、学校にいっている若い世代はテトゥン語を理解するらしい。

2、東ティモール社会を構成するのは誰か。
A.年齢層による分類
①高齢層
今の高齢層はポルトガルの植民地時代を経験している人でポルトガル人、インドネシア人、ティモール人の3つを経験している。ポルトガル人支配時に教育をうけることができず、基本的には字が書けない。その一方で、一部の富裕層はポルトガル系のカトリックの学校に行っており頭がいい。総人口の10%くらいである。
※この層には、シャナナ、ホルタ、シャビエール・ド・アマラルなども含まれる。彼らはいわゆる「一部のエリート層」なので、カトリック系の学校で学び、ポルトガル語、テトゥン語、英語などを解する。
②中年層
インドネシア人の国籍を持っていた人々。インドネシア語は話せる。ポルトガル語は話せない。人口の30~40%くらいである。
※ 彼らがテトゥン語を話すかどうかは地域的な条件に関わるところが大きい。ディリ周辺の県の人々はやはりテトゥン語を話す。東ティモールの全人口の80%くらいはテトゥン語を理解すると言われている。
③若年層
今の20歳くらいまでの人で、多くは独立後にきちんとした教育を受けた人々である。ポルトガル語、テトゥン語、英語、インドネシア語が話せる。人口の50%くらい。中年層より若者の方が、ポルトガル語を使えるので、よい仕事につける(らしい)。
※これらは基本的にはディリ周辺に関してのことである。

B、人種(フィクションもあるとされる)
a、分類
マレー系、パプワ系が多い。西側にはマレー系が多く、ディリには両方がいる。
①マレー系はインドネシアの文化に近い。インドネシア統治時代にはいい職についていた。西の人々はロロモヌと言われている。
②パプワ系は東側におり、ディリや東側でうまく働いている。政治で活躍している人の多くがパプワ系。こちらはロロサエと言われている。
③メスティーソ…ポルトガル、華僑の混血のこと。ディリで成功している人の多くがメスティーソ。お金持ちが多い。
④華僑…政府公社の東側が華僑の地域である。ファストフード店などがある。
⑤その他…他にはインド系、インドネシア系などもいる。フィリピン人は華僑などの下で働いている。白人の多くは、オーストラリア人とポルトガル人である。国連職員は東ティモールの一番大きな政治団体であると言える。
b、東西問題
2006年、西側の兵士が給与、昇給の問題で揉め、暴動が起きた。ここには東と西の間で問題があるように言われ、その後大統領暗殺未遂事件などもあったが、この東と西との軋轢はフィクションもしくは独立以後のものではないか。

C、性別、宗教
性別に関しては、国会議員においてアファーマティブアクションが働いている。30%が女性議員である。これに対して日本は11%くらいであることからも、ジェンダーに関しては進んでいると言える。宗教はカトリックが95%で、ムスリムが1%、プロテスタントが1%とその他である。カトリックが東ティモールでは大きな政治的力を持っている。

3、人物に注目して読み解く
シャナナ:首相。初代大統領。カリスマ。CNTRの党首 所謂ゲバラみたいな感じ。メスティーソ、パプワとポルトガルの混血。ゲリラ。メディアで活躍した。
ジョゼラモスホルタ:ジャーナリストとして活躍した。独立闘争から逃げて、外交活動をしていた。
アルカティリ:最初の首相。フレテリンの党首。頭がいい。
ラサマ:若い、国会議長、民主党党首、インドネシア語で教育を受けた世代、若手で一番人気。学生運動のリーダーだった。人種的にはロロモヌ(マレー系)。
ルオロ:人気。もともと、独立闘争に参加していた軍人。フレテリンの2番手。
※2007年選挙第1回投票結果…ホルタ22%ルオロ28%、ラサマ20%
アナペソア:以前、ホルタと結婚していて、今も重要なポジションにいる
エミリアピレス:金融大臣
カラスカラウン:インドネシア時代の東ティモール県知事。PSD党首。
アマラル:シャナナ、ホルタの思想的先輩だと言われる。ASDT党首。
ベロ司教:ノーベル平和賞、カトリック教会。
国連関連:イアン・マルティン、長谷川祐弘、アトゥール・カレ、アマラ・ハック
各自で調べてみるといいと思う。
※『東ティモール独立史』を参考のこと。

<質疑応答Ⅱ>
Q:西と東の間の問題について
A:75年から99年の間に東、西などの話はしなかったそうで、独立後の根拠のない人種による差別じゃないかなと思う。東の人の方が経済的に成功している程度のことだと思う。
※確かに軍ではパプア系の幹部が多い。なぜなら、独立闘争時代のゲリラたち(主にパプア系)の多くがそのまま軍に移行しているから。しかし、それを原因として、昇給差別があるというクレームもありうるような、なさそうな。はっきりとは言えないのかもしれない。
※政治の世界では確かにパプア系の政治家が多いものの、初代首相のマリ・アルカティリはアラブ系だし、国会議長のラサマはマレー系。それほど絶望的な差別があるとは思えない。