今回の授業では、国連大学客員教授の髙橋一生様よりOECDについて講義いただきました。OECDの設立や目的、取組について、戦後の歴史を辿りながら詳細に説明していただき、時代の変遷に伴うOECDの役割の変化を詳しく学ぶことができました。 〈田島 康平〉
「国際機構論」
■テーマ : 「OECDと現代史の展開」
■講 師 : 高橋 一生 氏 国連大学客員教授
■日 時 : 2009年12月1日(火) 13:30~15:00
■場 所 : 法政大学市ヶ谷キャンパス 富士見坂校舎 309教室
■作成者 : 田島 康平 法政大学法学部国際政治学科3年
****************************************
<Ⅰ.講義概要>
1.2つのシステムの崩壊
(1)近代史上の重要なテーマは国家と市場が経済や社会の運営にそれぞれどのような役割を果たすべきかであった。国家に大きな比重を置いて社会を見る見方や市場に基本的なものを任せる社会のありようが18世紀から人類のテーマだったが、この20年で明確な結論が出た。20年前の1989年11月9日にベルリンの壁が崩壊し、人間の理性に基づいて公平な社会が実現できるという前提の下に、その理性を国家に託した社会主義というシステムが崩壊し始めた。そして、2年のうちに東西冷戦の一方の雄であったソ連を中心とした体制は崩れたのである。これにより、国家を中心とした社会の運営というアプローチは否定され、一人ひとりの可能性は国家にはコントロールできない豊かなものであるという人間観が生まれた。
(2)国家による社会の運営が否定された反動として、1990年代には市場が過度に信用されるようになった。しかし、昨年9月のリーマンショックにより、アメリカを震源地として世界経済が破綻しそうになった。主要国や新興国が足並みをそろえ、自国の運営を通して世界経済を支え、世界経済は持ちこたえようとしている。これにより、市場に任せておけば、いいというのも間違いであることがはっきりした。市場に任せてきたつけを国家がこの1年間払い続けてきたが、未だに不安定な状況が続いている。
(3)国家か、それとも市場であるかが3世紀を通じて、議論や国家体制を通じて争われてきたが、この20年のうちにそのいずれも否定される結論が出て、新たな道を模索しなければならない時代になった。市場を中心としながらも、国家を中心とした公的な機関がそれなりの役割を果たさなければ、国家や世界の経済社会の運営は成り立たないと考えられている。その適正な姿が経済開発協力機構(OECD)を中心として模索され始めている。
2.欧州経済協力機構(OEEC)から経済協力開発機構(OECD)へ
(1)第二次大戦後、世界はソ連を中心とした社会主義諸国とアメリカを中心とした自由主義諸国に分かれて冷戦が始まり、1947年からその対立構造が明確になった。冷戦が明確化し、その対応や明確な状況そのものを作り出した力学がOECDの元になる機関を作り出した。
(2)1945年8月に日本が降伏することによって第二次大戦が終了したが、1945年12月から1646年の冬にかけてヨーロッパや日本は飢餓に苦しみ、共産主義運動が世界的に活発になった。ソ連はこれを好機とみて、世界共産主義運動を盛大に展開し、各国の共産党は勢いづき、西ヨーロッパ諸国は政権が脅かされるようになる。また、世界経済の半分を占めるアメリカも輸出先がなく、世界を市場にする必要があったが、中心の市場であるヨーロッパが共産主義に席巻されようとしていたため、自国のためにヨーロッパを救うことにし、日本にも巨大な支援態勢をとることに決定した。
(3)1947年6月5日にジョージ・マーシャル国務長官がハーバード大で演説を行い、ヨーロッパに巨大な支援を行うことを発表した。支援内容は1948年から具体化され、1952年までの5年間で当時のアメリカのGDPの2%分が毎年ヨーロッパに援助され、その一部は日本にも渡った。国際社会の新参者であったアメリカは援助の振り分けを古参者のヨーロッパ諸国に依頼し、ヨーロッパ諸国はOEEC(Organization for European Economic Cooperation)を設立してアメリカからの援助を管理し、復興を進めていった。
(4)5年後、ヨーロッパは復興を果たし、OEECはヨーロッパ諸国がアメリカと協力して経済運営をするための相談の場に変化した。1950年代末には、OEECはこれまでの役割を終え、抜本的に改革をする必要があると主張されるようになった。冷戦が深刻化する中で、西側諸国が市場を中心とした経済運営の優位を世界に示す必要があったためである。OEECは西ヨーロッパ諸国にアメリカとカナダを加え、市場中心の経済体制を強化していくための組織に転換された。1960年12月に条約が調印され、1961年9月にOECDが発足した。
3.OECDの目的と手続き
(1)OECDの目的は2つである。1つ目は貿易の促進に必要な加盟国の経済体制の自由化や財政規律と通貨規律の維持を促進することである。2つ目は加盟国の協力により世界全体に貢献することである。OECDの発足時に数多く独立したアフリカを含めた開発途上国への支援に向けた協力や相談を進めた。日本は開発途上国への支援に関してはOEEC時代から携わっており、組織全体に加盟したのは東京オリンピックが開催された1964年であった。これにより、日本は先進国として国際社会に認知されるようになる。
(2)OECDでの作業は民主主義と市場、非常に高度な教育を受けた人材を前提としている。OECDは紳士のクラブであるという認識から投票による決定はなじまず、議論を尽くせば互いに納得いく結論に達せるという考えから、コンセンサスによる決定を行なっている。また、様々な政策分野で協議をして結論を出し、その執行を確認するプロセスでconfrontation procedure(対立手続き)を採用している。これは全ての委員会で基本となっている。例えば、援助問題に関して、主要援助国は仲間(peer)から対立され、それに対して申し開きができなければならない。日本が援助審査を受ける場合、第三者の立場から事務局が日本の援助を分析し、さらに二カ国が審査国として指名され、日本の援助を各立場から厳しく審査や分析を行なう。それらに加え、世銀やIMF、UNDPといった国際機関がオブザーバーとして参加し、自分の新しい政策の方向が委員会の議論内容から外れないように努力している。最終的に委員会の委員長が結論をまとめ、2つの作業を行なう。1つ目はプレスへの発表で委員長は審査をどう見ていたのかを述べる。2つ目は審査された国の首脳に書簡を出し、公表できない問題を知らせ、首脳の責任の下に改善を図るように勧告する。
(3)G7・G8に代わってG20が世界経済の運営を考えていく事とそこでの決定がどう執行されているかを互いに審査することが合意された。また、審査に必要な資料を世銀とIMFが提供することが決定した。これはOECDの対立手続きを採用し、世界経済の運営に活かそうとしていると考えられる。ただし、OECDが対立手続きを採用した背景には同質の社会があり、激しく対立したとしてもそれが問題解決のために有効であるという前提を共有していた。G20の場合では、先進国と中国、インド、ブラジルなどとの間では同質性が極めて希薄であり、対立手続きが成り立つかどうかという問題に直面すると考えられる。
4.西側サミット
(1)サミットが開始されたことにより、1970年代半ばに入るとOECDの役割に変化が生じた。ジスカールデスタン仏大統領とシュミット西独首相が中心になり、1973年の第1次オイルショックによる世界経済の悪化に西側諸国が何も対応できなかったことを省みて、首脳が集まって様々な問題を協議することを提案し、第1回サミットがパリ郊外のランブイエで開催された。OECDにとってはサミットをどう活用するかが重要な課題になった。1975年の第1回のサミットでは協議する問題を経済問題に限定し、西側5カ国の首脳が集まって協議が行われたが、準備不足により成果を上げることができなかった。OECDの各委員会がサミットの準備を行なうことになり、西側諸国はOECDを通じてサミットの準備を行ない、サミットでの決定を全加盟国で共有して執行していくことになった。OECDはサミットを通じて世界経済を運営していくようになった。当時は冷戦構造が確立されていたために危機が発生しにくい状態であったが、まれに発生する危機に備えてOECDはG7と連動して危機管理を行なっていた。
5.冷戦終結と市場化
(1)1989年になると冷戦が終わり始めたことにより、崩壊状況にあった旧社会主義諸国の復興が新たな問題となった。OECDは旧社会主義諸国を世界経済に復帰させるために各国に経済政策の専門家を派遣するなどして政策支援を進めた。また、世銀やIMF、欧州開発銀行を使いながら、各国の経済や社会の安定化に努めた。冷戦終結直後の課題が国際社会に上ったときに、非メンバー国に直接支援したことはもう1つの課題にとって重要だった。
(2)もう1つの主要課題は市場を中心にして経済を運営していくグローバル化であった。市場の役割をどのよう強化すべきか、世界経済の効率的な運営をどうするべきかをマクロ経済政策やミクロ経済政策、貿易、投資などの様々な視点から追求していくことがOECDのもう1つの大きな役割となった。グローバル化については加盟国の内部に限らず、加盟国と非加盟国との関係が重要な側面を持つようになり、OECDが果たしていた加盟国を拘束する政策決定の場という役割から、非加盟国も含めて世界経済を運営するためのシンクタンクへと1990年代を通じてその役割を変えていった。
(3)世界最大で最優秀のシンクタンクと評価されるようになったが、逆に言えば、政策協議の場からシンクタンクへと大きく性格を変えていることを意味していた。1990年代は市場化の方向で世界を導いていたが、1997年7月のバーツ暴落に始まったアジア通貨危機により、世界の認識は浅かったものの市場一辺倒への危険性が認識されるようになった。これをきっかけにOECDは市場化の光だけでなく、グローバル化の影の部分にも焦点を当てて世界に警告を発していくように2000年前後に方向転換をした。その一環として移民や貧困などの様々な問題に焦点を当てていき、特に教育に関する問題についても取り組んできた。
6.新第三の道アプローチの模索
(1)方向転換を遂げていく中で昨年のリーマンショックが発生し、それまでの作業をベースにして世界全体で市場を中心としながらも公的な機関がそれなりの役割を果たしていくという第三の道アプローチを推進していくことになった。これは市場でも政府でもない、1990年代のヨーロッパの社会民主主義政党が掲げていた方向である。ヨーロッパでは実践されてきたが、世界政治経済においてはどう具体化すべきかが大きなテーマとなっている。
(2)OECDは具体化に向けた作業を行なっており、その1つにGDPに代わる新たな指標の開発を進めている。OECD は1970年代にGross National IndicatorとしてGross National Welfareの指標化を進めていたが、第1次オイルショックによって最初の試みは頓挫してしまった。それから30年以上経過して、新たに国民の生活の在りようを指標化すれば、世界各国の置かれている状況が理解できるのではないかという考えが生まれ、そこには主観的な幸福や満足を数量化して組み込むことが提案されている。この一例としてブータンのGross National Happinessがある。各国にどれだけの国力があるのかは包括的に見て判断しなければならないが、この100年間はそれもままならない状態で国の単位を扱ってきたいい加減な時代であった。グローバル化を向かえてようやく国全体が主観的な要素を含めて満足できるかが第三の道アプローチの一環として様々な政策を実施するなかで考えられるようになってきた。この傾向を喜んでいるのは鳩山首相なのかもしれない。友愛はフランス革命で謳われた自由、平等、博愛の博愛に相当するものである。フランス革命後、世界は博愛を抜きにして、自由か平等かで愚かなイデオロギー対立を繰り返してきた。自由か平等かではなく、博愛を抜きにする事が問題だと鳩山一郎が指摘していたが、これは現在の世界とどこか気脈が通じるのではないか。物質的なものだけではおかしく、より正確に測って数量化したものを政策と結びつけなくてはならず、政策と結びつけるものは何かがはっきりしなくては第三の道アプローチもろくなものにはならない。その方向性をOECDが模索しているが、加盟していない新興国を引っ張っていく発想になるだろう。
(3)G20では世銀とIMFが公式に資料を提供することになり、対立手続きを採用することになったが、そのベースが極めて希薄である。このベースはOECDに唯一存在するものであり、それをG20にどう反映させるかについてOECDは今後作業を進めていくだろう。
(4)OECDは開発途上国に対する支援を貿易や投資について行なってきたが、新たな世界環境の下で新しいドナー国を開発援助委員会のメンバーにする事も進めている。つい最近には韓国がメンバーになり、25カ国体制になった。この先には中国、インド、ブラジル、ロシアをメンバーに加えることが予定されている。新しい援助国は始めのうちは国民を説得するために自国の貿易に役立つような援助を行なうが、これを開発途上国の開発そのもののための援助に転換させるかが第三の道アプローチを開発途上国に広げていくのに重要である。
****************************************
<Ⅱ.質疑応答>
Q1. OECDの委員会が首脳に発行する書簡の内容について、政策を実行させるための担保となるものは何か。
A1. 2つの点で担保が図られる。国内の政策で担保となるのは選挙である。民主党は少なくとも形の上ではマニフェストを読んだ上で選ばれたことになる。従って、それを実行することが次の選挙で重要になってくる。2つ目は国内ではマスメディアである。マスメディアを通じて特定の政策決定があったものに関して、それが実行されないことに対する批判は政治の重要な要素になる。OECDで政策の方向が打ち出され、それが執行されているのか、担保がどうなっているのかについては3つの点が考えられる。1つ目は政策の策定過程に当事国が参加することである。政策合意文書などは事務局が一方的に作るわけではなく、その過程で政府と労働者や使用者の委員会、議会も携わっている。これら全てが関わって最終的な成果文書が作られる。自分が関わったものだから自分が執行するという大原則が前提になっている。2つ目はマスコミである。特定の方向に傾いたり、逸脱したりした国が出た場合にはマスコミを活用する。プレスカンファレンスに際して、各プレスの特徴を把握した上で発言を工夫し、報道させるようにしていた。3つ目は対立手続きである。合意したことは必ずレビューし、その場として対立手続きがある。そこで執行していない国は徹底的にたたかれることになる。大概の国は徹底的に批判された後には孤立を避けるために修正することになる。
Q2. GDPではなくより主観的な指標が必要であると述べていたが、これは新興国にとってどう意味を持つのか。
A2. 1997年以降の東南アジア諸国の教訓から新興国も学んでいると思う。1997年のアジア通貨危機以降、東南アジア諸国は成長一辺倒が良くない事を共通認識とし、その経済運営を変えている。元気な開発途上諸国も互いに学び始めており、その延長線上としてOECDの作業が明確に位置づけられるため、多少の時差があった後で中国、インド、ブラジル、ロシアなども同じような事を考えざるを得なくなるだろう。このプロセスは国民一人一人の声が各国の政治体制の中でより重要になっていくプロセスと軌を一にすると考えられる。
高橋 一生
国際基督教大学教授(国際関係学科,行政学研究科)、国連大学客員教授。
国際基督教大学(国際関係学科,行政学研究所)卒、コロンビア大学博士課程修了。その後、経済協力開発機構(OECD)、笹川平和財団、国際開発高等教育機構を経て2001年より国際基督教大学教授。国連大学のほか政策研究大学院大学でも客員教授を務める。また、国際開発研究者協会会長、国際開発世界理事会理事、国際開発センター理事なども務めており、「国際開発の課題」、「激動の政界:紛争と開発」をはじめ、多数の編書・著書がある。