【外交総合講座】2009年5月13日 篠田英朗様

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2009年度法政大学法学部
「外交総合講座」
■テーマ : 「国際社会の秩序」
■講 師 : 篠田 英朗 氏 広島大学平和科学研究センター
■日 時 : 2009年5月13日(水) 13:30~15:00
■場 所 : 法政大学市ヶ谷キャンパス 外濠校舎 307教室
■作成者 : 中川 有歩 法政大学法学部国際政治学科2年

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<Ⅰ. 講義概要>

1. 「国際社会」とは
(1)そもそも「国際社会」たるものは、存在するのか、ないと言い切れるのか。ないとすれば、国際関係学という学問自体が成り立たないのではないかという疑問も浮上してくる。しかし、明確な認識の有無に関わらず、実際には国際機関における外交が存在するということはないがしろにできない。そこで「国際社会」があるとして話を進めると、どんな捉え方があるのか。それは、もはや従来の伝統的外交の理解の仕方の枠では完全な説明がつかない。その上、十分な議論もされてこなかった。そこで、現実主義や自由主義の考え方を用いてみる。まずは冷戦期のアメリカで主流とされていた現実主義の考え方では、国家間で自国の利益のために駆け引きをすることがあっても、それは国際関係学の領域に属するものであって、そこに国際社会などは存在しないとするのが妥当であるとされてきた。しかし、冷戦も終わり「国際社会」全体で対応すべき問題が山積するようになったことによって、「国際社会」が存在するという考え方が現実味を帯びてきた。それは感覚的なものであり、統一されたイメージもなく、その上それが体系的に存在する確証もないが、その存在はもはや小さなものではなくなっていた。
(2)では、「国際社会」のイメージとして一体どんなものが想定されるのか。伝統的現実主義の世界観とは、対極に位置づけられるような、理想主義が挙げられる。その理想主義の国際社会に対する概念は、国連を中心としたファミリーのようなものといった漠然としたものである。しかし、一方でその「社会」において何らかの社会性を求める点を考慮すると、「国際社会」の本質を探究する上で非常に有意義である。
(3)そのような議論が進むにつれて、まず「社会」というものの根本を問い直す必要がある。「社会」の中核は、何かを共有し形成された、社会性のある集団であるということだ。その何かとは、文化や価値観などといったものであるが、それらの結びつきは、地理的・物理的結びつきよりも非常に強いものである。そうであるならば、国際的に共有するものがあれば、それは「国際社会」と呼べるのではないだろうか。
(4)では、「国際社会」の中で、共通した価値観とはなにか。人権がその一つとして挙げられるのではないだろうか。又、共通の価値規範としては、国家も挙げられるだろう。これは、国際社会論の立場から検証すると、国家には政府があるもので、政府には元首がいて、その国家単位で外交を展開するという理論である。つまり国家をつくって国際関係を構成していること自体が、共通の価値規範すなわちルールであるということである。

2.「国際社会論」の性質
(1)この理論の意義とは何か。それは、主として「国際社会」が共有する価値規範の共有や、構成原理とその歴史的展開の把握ではないだろうか。
(2)その研究の必要性をブル(Hedley Bull, 1932-1985)は先駆的に説き、実際にも自らの国際社会論において以下のように述べている。「諸国家がお互いの関係において、一組の共通の諸規則に拘束され、共通の諸制度の働きを共有しているとみなすとき、国際社会は成立する。」(The Anarchical Society 1977)つまり、共通の諸規則、諸制度が存在して、はじめてそこに「国際社会」があると言うことができるということだ。しかし、この概念は人間が本来的に持っていたものではなく、どこかで生まれたものであるとブルは考える。そしてそれは、16-17世紀のヨーロッパではないかと続ける。この考え方はヨーロッパ中心主義に傾いているとして、数多くの批判がなされてきたが、ブルは、ヨーロッパ中心主義は偏狭な学問的視点に依るものではなく、歴史的事実として認識されるべきだと説いている。それを踏まえて、「(脱植民地化が進む今日)国際社会は拡大しているというよりも、衰退しているかもしれない」と説いている。そこにある種の限界を感じることは否定できない。
(3)実在の国家においては社会と国家が一致しているが、政府がなくても社会は存在する。よって、世界政府がなくても、世界規模の社会は存在しうる。国家と社会を混同してはいけない。しかし、国家がないのに本当に共通の価値規範が存在するのだろうか。この点からブルの国際社会「秩序」論に発展する。
(4)その柱となる5つの制度は、バランス・オブ・パワー、国際法、外交、戦争、大国といったものである。バランス・オブ・パワーは、現実主義の見地からは、制度としては否定される概念であるが、ブルは、これを「国際社会」を構成する上での一つの制度であり、人間が守ろうとするものであるとして否定どころか「国際社会」の安定をつくる要素だと考える。又、国際法や外交は目に見える制度であるとし、戦争や大国も「国際社会」の秩序を形成する制度の柱の一つだとする。この理論は意外なものだが、大国には秩序を守るための役割があり、「国際社会」に政府がなく、無論、世界規模の軍隊などもない以上、大国がその特別な役割を担うべきであり、それによる戦争も、秩序を維持する制度として必要不可欠であると考えれば、説明がつく。
(5)一連のブルの「国際社会論」を見てきたが、この「国際社会」を「国内的類推」のイメージで見てはならない。つまるところ、ドメスティック・アナロジーを排して「国際社会」の秩序や制度を見出していくべきであるということであるが、「国際社会」を位置づける上で、国家に全く換言されることのない社会もあるのだとするような、柔軟な思考回路が必要である。

3.「国際社会の歴史」
(1)より具体的に「国際社会」を見ていくことにする。まず、ヨーロッパをモデルとする「国際社会」においてのキリスト教国際社会を挙げる。これは、「国際社会」の初期に出現した概念であるが、「国際社会」において共通の価値規範があるとすれば、キリスト教という国境をこえた広い範囲での共通の価値規範こそが、それにあたるとしたものである。しかし、時が流れ、宗教革命が起こった中でその概念に懐疑的になると、ヨーロッパという地域に新しい価値規範を見出す、ヨーロッパ国際社会という考え方に進化を遂げた。さらに20世紀になると、ヨーロッパという地理的な範囲にとらわれず、多種多様な価値規範を有する、普遍的国際社会という考え方が主流になった。
(2)ヨーロッパ国際社会とはなにか。ヨーロッパ全体で共有している制度に基づくものであるが、特にバランス・オブ・パワーが中心的な意味をもつようになった。それは、単に国家と国家が利己のために外交をするのでなく、相互に秩序を維持するようにすべきだという価値規範が根底にある。
(3)しかし、バランス・オブ・パワーの制度的意義が薄れる時代になると、より抽象的な原則が共有されるようになった。これが普遍的国際社会の幕開けであるが、主権国家がより規範的意味合いを深め、人権などといった価値規範が重要視されるようになった。

4.国際社会の構成原理
(1)国際社会の構成原理として最重要なものは、国家主権ではないだろうか。よって、国家主権の秩序を維持することは、極めて重要である。現実主義では、国家主権とは国家間でぶつかり合うような剥き出しの力の単位であるような扱いをされるが、国家主権は排他的ではなく、変質し続ける構成原理である。この概念の発端となった宗教改革の後の絶対主義では、主権という概念が価値規範となった。しかし、人権などは守られていなかったのが実情であった。そのような流れの中で、ロックのような自由主義や立憲主義が生まれた。1648年のウェストファリア講和条約が象徴することは、キリスト教社会が秩序維持を果たせなくなったために、新しい原理で国際社会の秩序を維持するということであり、その新しい原理が主権国家を軸にするということであった。それが絶対王政の中でバランス・オブ・パワーに依るものになり、それによってよりよい「国際社会」を形成しようという動きが主流となった。その典型が、ユトレヒト条約である。さらに19世紀になると国家の擬人化が起こった。国民という概念が強まり、国家にもその性質が投影されて考えられるようになった。人間と人間の社会の理論を国家と国家の間でも、適用されるべきではないかとする概念である。20世紀では、「国際社会」全体に、人間一人一人が共有している価値規範があるのではないだろうかとする概念が生まれ、国民国家の普遍化や立憲主義的秩序が重要視されるようになった。以上のように、国際社会の成立における主権概念の推移がうかがえる。

5.国際社会の外部領域
(1)では、このような「国際社会論」が具体的にどのように政策論とつながっていくのであろうか。まず、アメリカ的国際社会を考えてみる。アメリカは、ヨーロッパのバランス・オブ・パワーを過去の遺産として軽蔑し、自らが有する能力や意思を新秩序として価値規範として特別視した。その価値規範は21世紀において主流化していることは明らかである。
(2)しかし、それとは一線を画する、「普遍的国際社会」の外部世界も存在する。その様な社会においても、国家主権のような国際社会構成原理に挑戦をしたり、失われた状態にある存在や、人権などの国際秩序にかかわる価値規範に対抗したり、維持できない状態にある存在は、反社会的とみなされるのは同じである。それは、NGOや国際機関といったものも含む。以上を踏まえて、「国際社会」で生きるとはどういうことか。今一度問い直したい。

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<Ⅱ. 質疑応答>

1.アメリカ的国際社会について
Q.アメリカは、「国際社会」の枠組みの外に存在し、国際社会とアメリカの二極構成になっているのではないか。なぜかというとアメリカは、国際的価値規範でなく、アメリカ国内の法律を優先する行為が目立つから。
A.確かにそうであるが、それだけに依拠して、アメリカを「国際社会」において反社会的な存在であるとは言い切れない。当然、他の国でもそのような事例はある。「国際社会」の秩序は、国家主権を一つの柱にしているわけであり、国家主権がある以上、許容範囲内のものは、特に反社会的であるとは言えない。もしそこに線を引くとしたら、あからさまに人権を否定するなどの行為をした時であろう。

2.主権国家への介入(Responsibility to Protect)について
Q. 確かに主権国家の枠組みは社会的であるが、現在よく言われる主権国家への介入(Responsibility to Protect)も社会的であると考えられる。このようなグローバルガバナンスの流れにともない、主権国家の共通規範の意味が曖昧になりつつあると思うが、この先、主権国家以上に国際規範とみなされるようなものは出現するのか。
A. R 2P(Responsibility to Protect)自体が、現時点で国際社会でどのような位置付けにあるのか問題視されるというような、学術的な側面をもつが、全く国際社会から外れた理論ではなく、最近の国連の公式文書でも取り上げられているくらい、ある程度の概念ではあるということをふまえた上で検討する。R 2 Pが、国際社会においてどういった構成原理になり得るのかを説くとすると、構成原理の考え方を少し変える必要がある。さらに言うと、R 2Pは、主権を否定するものではない。国家主権を行使する被介入政府が、適切にR 2 Pを遂行してもらうことが重要である。

3.日本の平和構築における国際的貢献について
Q.日本は現在様々なかたちで海外の平和活動に貢献しているが、目的と利点は何か
A.その理由として二点、相反する形で挙げられる。まず、過去の戦争から現在につながる国際関係において、戦犯的イメージを払拭し名誉ある地位を獲得したい。そのためには、「国際社会」の主流の価値規範中に、自国を位置づけたい。又、その中で、より多くの役割を果たすことで、日本の地位を高めたい。そのような願望的要素が挙げられる。次に、「国際社会」の中心的国家であり、日本が依存しているアメリカが、「国際社会」に貢献しているから、日米同盟が日本にとって存在の基盤になっている以上、安全保障上の側面で日本がアメリカと同じような貢献を果たすことに利点はあるとする考え方である。これは、あくまでアメリカと「国際社会」が一致しているとする場合の話であるが、アメリカへの追従的要素が浮き彫りになっている。

篠田英朗
広島大学平和科学センター准教授。専門は国際関係論。早稲田大学政治経済学部卒業。同大学政治学研究科修士課程修了。藤原保信に師事。1998年ロンドン・スクール・オブ・エコノミストより博士号取得。